読む台湾茶

日本経済を陰で支えた台湾茶

日本経由で世界へ

日本統治時代の台湾では、日本向けの紅茶を生産していました。日本向けといっても、結局は日本から世界へ輸出する紅茶として、日本経済の一角を担っているものでした。

イギリスがインド、セイロンでやっていたのと同じことを、日本は台湾を利用して企んでいたのです。

もちろん当時、紅茶の研究も日本主導で進められたものでした。しかし、ほとんどが台湾にある青心大有などの烏龍茶品種でむりやり紅茶を作ろうとしたものです。

北アフリカ市場を奪うも・・・

第二次大戦後、日本が台湾の支配権を失うと立場が変わってきました。中国はまだ国共内戦のさなかでお茶の輸出どころではない状況だったのです。これを知った日本は、緑茶(碧螺春、龍井)の矛先を北アフリカ市場へと向けました。

この地域では、古くから濃く出した緑茶に砂糖とミントを入れて飲む習慣があるのです。1952年には、輸出量1万トンのうち3分の2が北アフリカ、特にモロッコ向けでした。

そこへ台湾が食い込んできました。台湾は安い労働力と日本時代に培った確かな技術力をいかし、日本のライバルとして名乗りを上げたのです。日本は価格競争力では台湾にかないません。瞬く間に北アフリカ市場は台湾に奪われてしまいました。

しかし60年代に入ると、内戦を終結させた中国の釜炒り緑茶が再び盛り返し、一気に躍進を始めました。日本も台湾も大きな輸出先を失ってしまったのです。

日本茶が足りない!?

ちょうどこの頃、日本は高度経済成長期に突入。都市化・核家族化が進んでお茶の国内消費量もうなぎ登り。これまで日本茶といえば外貨を稼ぐためのもので、消費用は統計にも上らないほどでした。そこにお茶を「買う」時代が到来し、いよいよ国内市場に向けて増産を図ることとなりました。

しかし、お茶の樹はそう簡単に増やせるものではありません。最低でも3年から5年は必要です。そこに活路を見出したのが台湾。日本で煎茶が足りず、価格が上昇傾向にあるという情報が台湾に伝わると、いったんは行き場を失った台湾のお茶が日本へ矛先を向け始めたのです。

もちろん烏龍茶品種がほとんどなので品質は二の次、とにかく質より量でした。日本市場の穴に攻め入るべく、ひたすら煎茶の増産に励みました。

1960年から70年にかけて、日本のお茶の消費量は2倍に増えました。70年代には、日本は毎年1万トン前後の煎茶を台湾から輸入しています。新茶の時には基隆から鹿児島に毎日船が出ていたそうです。

やがて日本の増産体制が整うと、台湾からの輸入は衰退をはじめます。

70年代後半には台湾も日本の後を追うように経済成長期に突入。台湾茶もやはり国内需要に目を向けるようになってきました。いわゆる中国茶道の普及が積極的に行われるようになったのも、この時期に重なります。

90年ごろからは、先々を見込んで、多くの台湾人が中国やベトナムに資本を投じてお茶を生産、輸入するようになりました。台湾が数年遅れでずっと日本の背中を追いかけてるという流れは、とても興味深いものです。このように、台湾茶は日本経済の発展に大きく関わってきました。

世界へ羽ばたく台湾茶

その後の台湾茶の盛況ぶりはご存知のとおり。台湾茶は世界中から引く手あまたで、今では台湾国内で販売される半分以上が、中国やベトナムからの輸入に依存している状況です。

近年、阿里山は中国人観光客で溢れかえっています。ニュースによると、実に多くの人が騙されて中国産のお茶を、しかも桁違いに高い値段でつかまされているとのこと。ツアーガイドやタクシー運転手と販売店が共犯で、利益は折半だそう… 笑うに笑えない話です。

産地では本物を守ろうと、DNA鑑定や商標登録に躍起になっています。私は当面はいたちごっこが続くだろうと思います。

今年は暖冬で、お茶の消費が進まなかった方も多いはず。たまにはお気に入りの茶器を並べて、台湾茶と向き合ってみませんか。

メルマガ 2007/3/23号より

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