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四季春物語

さて、今号のテーマは「四季春物語」です。

よく目にする品種ですが、詳しいことをご存じない方って多いのではないのでしょうか。専門用語には最後に注を付しました。

木柵生まれ木柵育ち

光復後2年目にあたる1946年、張文輝は自分の茶園で珍しい茶樹の株を発見しました。それは見るからに普通とは違っていました。葉はひし形を呈し、その株だけが非常に生長力があったため、移殖してみないかと父に話を持ちかけました。

しかし父はそれに同意せず、たまたま育ちのいい茶樹があるからどうだと言って相手にもしませんでした。これが移殖が遅れた一つの要因です。

茶園について述べると、一家は木柵樟湖に住み、祖父は張迺妙(※1)、父の張佳成も茶農家を営んでいます。1940年ごろ、父はここ木柵に一片の茶園を購入し、その土地を他人に貸与する形で茶を栽培していました。

しかし小作人は茶園管理をしっかりとしなかったため土地を荒廃させ、ついには借地代も納めなくなってしまったのです。これに怒った父は小作人との交渉を進め、ようやく土地を回収することを認めさせました。

その年の清明節(※2)が迫ってきたある日、文輝は一面に雑草が生い茂り、茶樹も数株しか残っていないこの茶園で、すでに芽を出している極早生種を発見しました。その後よく思い出してみると、この茶園の大部分は軟枝仔(青心烏龍)だったので、それが自然選抜される最中に偶然現れた変種に違いないと確信しました。

栽培、製茶技術の確立

1960年に父が他界した後に、文輝は圧枝法(※3)で300株を育苗してみたところ、それがすこぶる生長が速く強健だったのです。幼苗が大きくなって、試しに摘み採った茶青(チャの生葉)を製茶すると、非常に香りが優れたものでした。

その後も製茶行程の研究を重ねた末に、ついには包種茶のような條型状にしても凍頂烏龍茶のような半球状にしても、さらには冷凍茶にしても期待以上に素晴らしい香りを発することに成功したのでした。

文輝はこの新種を広める手始めとして、まずは近所の茶農に紹介したところ、みな興味深々に茶苗を持ち帰り植え付けてくれました。木柵で手応えをつかむと、次は台湾全土での売り込みを開始しました。木柵出身の張子善が★挿法(※4)で育てた茶苗を名間、南投等の中部茶区へ「四季春」という名称で普及を図ったのは、今からほんの2、30年の話です。

四季春は「六季春」とも呼ばれます。それは、夏茶の品質が劣るのは仕方がないとして、その他いずれの季節とも香りに優れ、さらに冬場の休眠がないため年6、7回採茶が可能だからです。茶樹は生長が速いだけでなく病害虫も少なく、干ばつにも強いのが特徴です。

張文輝と息子・信鐘は四季春の茶青を用いた冷凍茶、軽発酵茶、中発酵茶の製茶法の普及に貢献し、香りに関しては多くの試行錯誤を重ねて、喉韻(※5)をも生み出す製茶技術の確立など素晴らしい功績を残しました。

台湾全土へ、そして海外へ

今ではどの茶区でも四季春が栽培されるに至りました。木柵の小さな茶園に誕生した茶樹は、坪林、南投、名間、鹿谷、瑞里、梅山、花蓮、宜蘭、さらにはベトナムなど海外にまでも四季春の香りを漂わせるようになり、小さな小さな発見が現在多くの人々に喜びを与えるとは思いもよらなかったと張文輝は懐古します。

四季春はこれからも永遠に作付面積を伸ばし続け、私達にお茶の喜びと幸福を与えてくれただけでなく、茶樹の生命の無限さにも気づかせてくれたのです。

楊武東氏は著書の最後に次のような詩を残しています。

「花種雖因地、従地種花生、若無人下種、花地盡無生」(訳:花は地に育ち、咲くが、種を蒔く人がいなければ、何も生まれてこない)

参考資料:楊武東『四季春茶樹的探源』

資料協力:中華茶聯 張貿鴻老師

四季春は安物だと信じてやまない方、ぜひ機摘四季春や楊さんの桂香烏龍をお試しください。四季春の美味しさを再発見できるはずです。

どの品種にも興味深い故事があります。いろいろと探ってみるのも面白いものです。

メルマガ 2004/2/10号より

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